松本零士と宮崎はやお

松本零士は福岡県久留米市で、石ノ森章太郎と同じ年月日に生まれる。

6歳までは兵庫県明石市で過ごし、第二次世界大戦中は母親の実家がある愛媛県喜多郡新谷村(現在の大洲市新谷町)に疎開していた。

 

このときアメリカ軍機動部隊の戦闘機や松山市へ空襲に向かうB29などの軍用機を多数目撃していた。

この体験が後の作品に影響を与えたという。父親は陸軍航空隊の少佐でパイロット。

四式戦闘機(疾風)に乗って、終戦の日まで連合軍と戦っていたという。

 

戦後、多くの元軍人パイロットが自衛隊入りしたのに対し、松本の父は「敵の戦闘機には乗れない。」と言い、野菜の行商をしながら線路脇のバラックに住み、その境遇を自ら進んで赤貧へと落とした。 

 

しかし、家族で父に反対する者はおらず松本少年も「俺の父親は最高だ、父親と一緒にいられれば俺は満足。」と行商のリヤカーを押したという。

この「本当のサムライとしての父のイメージ」は、後に『キャプテン・ハーロック』や、『宇宙戦艦ヤマト』の沖田十三のモデルとして、松本の作品に生かされていった。

 

また松本自身、進駐軍兵士がばら撒くキャンディーなどを「食べたくて仕方なかったが全部下駄で踏みつけてつぶした。」という。

そして、宮崎駿について。

NHKプロフェッショナル 仕事の流儀スペシャ宮崎駿のすべて〜“ポニョ”密着300日」(2007.3.27)という番組に関して思ったのが、アニメータなどに、やたら外国人ではないかと思えるようなスタッフばかりだったこと。

宮崎はこの頃、ほとんど日本語すら通じない環境の中、制作の音頭をとっていたのではないかと思える。

宮崎駿の半生について書かれた数少ない著書に、『宮崎駿の原点―母と子の物語』というのがある(出版元は潮出版で、これも第三文明社と同じ創価系の出版社。詳しくは上記 書名クリック)。

その中での兄 宮崎新氏の回想に、弟である駿のイデオロギーの根底にあるものを垣間見ることができます。

戦後に起こった国鉄一連の事件で「下山総裁轢死事件」とか「三鷹事件」とか「松川事件」とかありましたが、松川事件のことで駿が国鉄労組員であった被告らの無罪を主張し、母は有罪を主張して大激論となり、家族であった兄 新氏らは難を避けて別の部屋に逃げ出したそうです。既に20歳を過ぎる駿が、最後には泣きながら議論していたそうです。

母は、いったん議論になったら絶対に後へは引かない性格で、政治的な心情としては吉田茂を敬愛、いっぽう1941年生まれの宮崎駿は、60年安保の薫陶を受けた世代であり、衝突しないはずがなかったということですが・・・

兄の新氏は、『となりのトトロ』を見た時に、サツキとメイが自分と弟の駿氏であると直感し、気持ち悪いものを感じていたようです。

宮崎駿が6歳の時、母は脊椎カリエスにかかり9年間入院していたので、これもトトロの入院している母親と同じ。

退院後も、庶民とかけはなれた裕福な家庭で思想や社会評論を語り議論する母親、そしてマザーコンプレックスを持つ息子、といったものが、その後の作品にも如実に反映されていったのではないかと考えられます。

http://whisper-voice.tracisum.com/?eid=156

小池氏も保守の論客と持て囃されながら、自民党を飛び出し、いったい何がしたいんでしょうねえ。ハヤオみたいに地位と名声。総理大臣の椅子が欲しいだけじゃないのでしょうか?

■小池氏、アベノミクス「実感伴わず」=側近政治塾で講演、新党に期待

(時事通信社 - 09月16日 19:00)